四国の浮世絵・市川の浮世絵


本社のある四国と東京事業所のある千葉県市川市に縁のある浮世絵です。
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【崇徳院/香川県坂出】
 保元の乱で敗れた崇徳院は讃岐の国に流され、悲憤のうちにこの世を去った。香川県坂出の白峰寺近くに陵墓がある。
 詞書きは百人一首の解説だが、絵は怨霊伝説に取材したもの。

sutoku タイトル 百人一首之内・崇徳院
絵師 歌川国芳
作成時期 天保9年(1838年)頃
詞書き 瀬を早み 岩にせかるるたき川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」
 詞花集恋の部に入 こころは瀬のはやき川の水の岩にせかれて左右へわかれても 末にはまたあふものなれど つらき人に別れては後にあひがたき習(なら)ひなるを わりなくても末に逢んと思ふははかなき事ぞとうち歎(なげ)きたるは 実に意味ふかき御歌なり
崇徳院の伝説
・鳴かずの里
 配流先で聞いたほととぎすの声に都を偲び、「なけば聞く 聞けば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす」 と詠まれたところ、その辺りではほととぎすが鳴かなくなったと伝えらる。
・雨月物語・白峰(上田秋成 江戸中期)
 大乗経を写経し鳥羽院の菩提を弔うべく都へ送ったが、呪詛ではないかと突き返される。院は失意のうちに髪も爪も伸び、生きながら天狗の姿になって死後の祟りを誓う。
 西行が白峰の御陵を訪ねると院があさましい姿で現れる。問答の末、「よしや君 昔の玉の床とても かゝらんのちは 何にかはせん」という歌でしずまり給う。平家と後白河院の行く末はこのときの化鳥の予言に一致する。


【玉取蜑(あま)/香川県志度】
 藤原鎌足供養のため面向不背の珠どこから見ても仏の姿が正面に見える珠)が唐から送られた。しかしその途中志度の沖でしけに遭い、海神をしずめるために、珠は海に投げ込まれる。
 鎌足の子、不比等はこの珠を取り戻しに来て、志度の海女と結ばれる。海女は海に潜り竜宮から珠を取り戻し、乳房を切ってその中に隠し持ち帰るが力つきて死んでしまう。その墓が志度寺に現存する。
 絵は、源氏物語五十四帖シリーズのうちの玉葛に玉取海女の伝説を引用したもの。
tamatori タイトル 源氏雲浮世画合・玉葛
絵師 歌川国芳
作成時期 弘化年間(1844−47年)
詞書き 「恋わたる 身はそれなれと 玉かつら いかなるすちを たつねきぬらん」
玉の盃底なしとて 色に迷ふが玉のきず 出世をねがふ玉の輿 おくる玉章(たまづさ)たまかづら 玉の家号の玉揃ひ 玉を欺く顔(かんばせ)はあたりまばゆき光にて 龍の腮(あぎと)の玉よりも意(こころ)を得てこ七難けれ
                    填詞 花笠外史


【葛西海苔/千葉県市川】
 市川の海辺では海苔の養殖が盛んだった。
 全国の名産を弟子にこま絵に描かせた美人画のシリーズ
 この図の描かれた翌年にペリーが来航し、江戸も騒がしくなっていく。
kasai タイトル 山海愛度図会・はやくにげたい・下総葛西海苔
絵師 歌川国芳
作成時期 嘉永5年12月(1852年)


【真間の手児奈(てこな)/千葉県市川】
 むかし手児奈という女性が居た。なりはみすぼらしかったが、大変美しいので多くの男が言い寄った。しかし、男達が争うのに心を痛め、真間の入り江に身を投げてしまった。
 市川市真間に手児奈霊堂があり、初夏にはほおずき市でにぎわう。

 絵は、近江八景に準えた美人画シリーズのうちの1つ。背景は江戸時代紅葉の名所だった真間山。
mama タイトル 賢女八景・真間晴嵐・真間賢女
絵師 歌川国芳
作成時期 弘化2年間(1845年)頃
詞書き 下総葛飾郡真間といふ所に獨(ひとり)の美女 いやしき家の女なれども人がら形の美き事貴人といへどもはづかしからず 故にみる人きく人恋したひければ女思ひわづらひ沖に身を沈めける 諸人あはれに思ひ後これをてこな明神とまつる
 万葉集赤人の歌に
「かつしかの ままの入江に うちなびき たまもかりけん てこなしぞおもふ」